なぜ、教育格差はいつまで経っても解消されないのか。格差は一般的に親の年収の差=家庭の貧富の差と見る向きもあるが、文筆家の御田寺圭さんは「教育格差の真因は親の所得格差ではなく“別の理由”がある。そのことをSNS上で述べると、『不道徳でただしくない発言だ』と大勢で寄ってたかって非難するコミュニケーションが、核心に迫る議論を委縮させている」という――。
「教育格差に実感が湧かない」
2020年代のSNSで炎上しやすい話題といえば、政治、ジェンダー、学歴が3強といったところだろうか。
7月のあるとき、ツイッターのタイムラインをひときわ賑わす話題があった。そこでは東京大学理科3類(医学部)という、名実ともに日本最高難度を誇る大学を卒業した人が、いま世間で言われるところの「教育格差」について、個人的に実感が湧かない――と素朴な感想を漏らしたことで人びとからの激しい非難を浴び、いわゆる「炎上」状態になってしまっていた。https://togetter.com/li/1917004
発端となった発言を要約すれば「お金がなくて塾に行けないのなら、自分で参考書を買えば安上がりだし、参考書すら買えないというのであれば、いまどきならYouTubeに塾や参考書と同等の優秀な講義が公開されているのだからそれを視聴すれば事足りる」といった旨だ。悪気があったわけではなく、富裕層と貧困層の間に広がる教育格差に対して素朴な感想を述べたにすぎなかったのだが、それが人びとの逆鱗に触れ、方々から非難を浴びてしまったのである。
しかしながら、大炎上してしまった当該の発言について、是非はどうあれ、必ずしもナンセンスなことを言っているわけではない。むしろ現代社会の「分断」や「格差」について、きわめて示唆的ですらあった。
エリートからは「下界」が見えなくなってきている
私はこの文筆業界で仕事をするようになってから、東京大学を卒業した友人や知人がずいぶんと増えたのだが、実際のところかれらは「教育(の機会にも結果にも)格差がある」という事実を主観的には実感しづらい環境で生きてきた場合が珍しくない。
このように書くと驚かれるかもしれないが、本人としてはまったく嫌味でも謙遜でも誇張でも自慢でもなく、本当の意味で「人並みに勉強していたら、普通に合格圏内に東京大学が入ってきたから、受験してサクッと合格した」という人もそれなりにいるのだ。むしろ東京大学よりも偏差値でわずかに劣る他の難関大学(たとえば東大以外の旧帝国大学や早慶などの難関私大)でこそ「猛勉強の末になんとか合格を勝ち取った」という人が多いのではないだろうか。
毎日塾に行き、家では家庭教師を雇い、青春時代のすべてを勉強に捧げたからどうにか東京大学に入れた――という、重い覚悟と犠牲を支払うステレオタイプな「ガリ勉」のロールモデルではなく、もっと軽い雰囲気で「それなりに勉強したら結果がついてきたから」とか、もっといえば「家からでも通えそうなところがたまたま東大だったから」という人さえいる。
分かりやすくいえば、かれらの多くは「勉強にリソースを10投資すれば、リターンは10返ってくる」という線形的でシンプルな世界観を(自分がまさしくそうだったからこそ)素朴に信じられる成功体験を積みあげているのだ。そんな彼らだからこそ「お金がないなら参考書を買えばいい。YouTubeを見ればいい(そうすれば十分に学習効果を得られるのだから)」と考える。繰り返し述べるが、悪気はない。
「教育格差=経済格差」では見えなくなってしまうもの
しかしながら、教育格差の問題について考えるとき、「親の経済力によって受けられる教育投資の差によって生じたものだ」というわかりやすい物語だけでは見えない部分があまりにも多い。
結論を述べれば、「貧しい家庭は十分な教育投資が受けられない」だけではなくて、「貧しい家庭には、貧しさと同じかそれ以上に受けられる教育が乏しくなる“べつの理由”がたくさんある」からこそ、結果的に教育格差が発生してしまうのだ。
あまり声を大にして言いたいことではないのだが、幼いころの私は諸事情により、貧しくなおかつ学歴の乏しい人が多く暮らす街で長い時間を過ごしてきた。幸いにも、当時の貧しさがつらかったとかそんな記憶は私にはない。そこで私は多くの友人に恵まれたからだ。
その街でできた友人たちの家にしばしば遊びに行くこともあった。その経験則からいえば、貧しい街の貧しい家のほとんどでは、まず机がない。冗談で言っているわけではない。家のなかに「机」と呼ばれる家具が存在しないのである。言うまでもないが、勉強するための静かで落ち着いた部屋もないし。
「落ち着いて、集中して勉強する」という概念がない
したがって、子供たちがかりに勉強をするとなれば居間しかないが、そこには案の定大きなテレビがあり、おもちゃがあり、雑誌がある。雑然としたモノに溢れている。親兄弟や親戚がつねに集まってガヤガヤとしている。そんな場所では集中して勉強に打ち込むことは容易ではない。いや、そもそも家族のだれも「机に向かって集中して勉強する」という“発想”それ自体を持っていないといっても過言ではない。
文章で表現すると直感的には理解しづらいかもしれないが、貧しい人びとが暮らす街の日常生活のなかには「落ち着いて腰を据え、集中して勉強する」という概念自体がないのである。貧しい街にある貧しい家庭では、「勉強する」という営みは、自分たちの認知的枠組みのなかには含まれておらず、自分たちの生活や認知の「外側」にある逸脱的な行為として位置づけられているのだ。
生活からも認知からも逸脱した行為だからこそ、私生活はおろか、学校生活においても「勉強している=ダサいこと」という価値観が広がりやすい。
もちろん本棚もない。娯楽雑誌が転がっていることがあるが、落ち着いて読書をする空間も習慣もない家庭では、参考書や専門書をしまっておく本棚は無駄なスペースを取る家具でしかなく、早々に排除されてしまう。本を読むという習慣がないから、たとえ多少のお金があっても勉強や教養のための本を買うという選択肢が浮上することはない。
たしかに、いまどきの子供たちにはYouTubeがある。YouTubeにはそれが無料で見られるのが信じられないほど上質な自主学習用の動画がいくつも公開されている。これを有効活用すれば塾に通うお金がない子供でも、通っている子供たちと同じくらいの学習機会を補完することは理屈の上では可能だろう。……あくまで理屈の上では、だ。
というのも、YouTubeにはすばらしい講義も収録されているが、それ以上にたくさんの誘惑があるからだ。YouTuberたちによるゲーム実況やオモシロ企画など、バラエティ豊かなコンテンツが目白押しだ。
机もなければ本棚もないような家の子供が、ことYouTubeを起動させたときだけ集中力を発揮して誘惑にも負けず勤勉になるということはありえない。次々にサジェストされる娯楽コンテンツのサムネイル画像をタップしてしまうのが当然だ。YouTuberたちはどうにか子供たちを誘惑しようと日夜工夫を凝らしている。
教育格差とは純粋な意味で「貧しさ(親の所得格差)の問題」という部分はもちろんある。しかしそれ以上に、その家庭に貧しさをつくりだした「慣習」や「文化」の問題である。
家に机がない、周囲の人間には集中して勉強するという概念がない、YouTubeは娯楽のツール――そうした「前提」が広く共有されているような場所では、エリート層が考えるような「塾に行かなくても効率的に学習できるやり方」を実践するような土壌がない。
言ってはいけないことを言わねばならない時期
給与所得や金融資産などの経済的な格差は計量的・統計的に把握することが可能だ。しかしながら、慣習や文化や概念といったものは統計的に記述することができないため、そこに格差があるとしても、図やグラフによって客観的に可視化することが困難だ。
かりに貧しい家庭に一律の経済支援を行ったとしても、あるいは勉強机を支給したとしても、その家庭の子供の学力向上にたちまち貢献するかは微妙なところだろう。たしかに「貧しさ」は教育格差の原因であるが、同時に文化や慣習によってもたらされた最終的な結果でもあるからだ。
貧しい暮らしのなかに根深く共有されている習慣や文化や価値観こそが、そこで暮らす子供たちが得られる教育の質的・量的な乏しさをつくりだしている。国や自治体から「子育て世帯の(教育費)支援」の名目で多少のお金が入っても、それでは「貧しさをもたらす慣習や文化」そのものを変えることはできない。
しかしながら「貧しさはカネがないことと同じかそれ以上に、貧困層に共有される慣習や文化こそが原因だ」――と述べることは、現代社会では差別主義者として非難されるリスクをともなう。そのため「教育格差」の問題の核心部を理解している人も、自身の社会生活を危うくしかねない不名誉なレッテルが貼られるのを恐れて「各家庭の経済格差や貧困をなんとかしなければいけませんね」とお茶を濁す。
それではいつまで経っても「教育格差」の表面的な部分を撫でるだけに終わってしまう。不道徳で「ただしくない」発言を見つけたら、大勢で寄ってたかって非難してたちまち炎上させるSNS的なコミュニケーションが、核心に迫る議論を委縮させている。
貧しい家庭の子供たちが思うように勉強ができず、学力が伸び悩んでしまうのはなぜなのかという問題について、世間から怒られたくない我が身可愛さのあまり「お金がないから」という、なにも言っていないに等しい無難な議論で終わらせていては、根本的な解決を見ることはない。
[文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭]