冷え込みが厳しくなってきた。この季節にふさわしい食べ物といえば「鍋」が王道だろう。すき焼き、しゃぶしゃぶ、ちゃんこ…、種類や具材はさまざまだ。そのなかで、「馬力」をつけられる、と伝えられてきたのが、明治の東京で生まれたとされる「桜鍋」。その老舗を訪ねた。
東京メトロ日比谷線三ノ輪駅から、通りを歩くこと約10分。大正時代に建てられ、国の有形文化財に指定されている「桜なべ 中江」の趣ある木造建築の店が見えてくる。創業は今から120年ほど前の明治38年。創業当時、周辺には「吉原遊郭」が栄え、桜鍋の店がひしめいていたという。
桜鍋は「牛鍋」と同じく、明治の文明開化で肉食文化の広まりとともに生まれた。牛鍋に対して、吉原周辺では農耕用の馬が多く飼われていたなどの事情もあり、馬肉が使われたようだ。
4代目店主の中江白志(しろし)さん(58)は「創業のころは20~30軒の桜鍋の店があったが、この店だけが残っている」と話す。昔は遊郭を行き帰りする客が「精をつける」ため、桜鍋の店に立ち寄ったのだという。
桜鍋は馬肉のほかに焼き豆腐、シメジ、しらたきなどを割り下とともに煮込み、生卵に絡めて食べる。割り下には隠し味として味噌(みそ)だれが入っているという。これは中江さんの曽祖父である初代店主の「牛と馬は肉の質が違うから、馬には馬の味付けが必要ではないか」との発案によるものだ。
土日や祝日には、桜鍋に一品料理も付いたランチメニューを提供しており、その中の「中江昼膳」(2980円)をいただいた。
ぐつぐつと鍋が煮えるにつれて、食欲をそそる香ばしい匂いが漂いだす。馬肉は少し赤みが残っているくらいが食べ頃だそうだ。ちょっとクセがあるのかな、という予想は見事に裏切られた。肉はとてもジューシーで、伝統の割り下が肉からのうまみを引き立てている。
肉と野菜を堪能した後は、汁が残っている鍋に卵を投入。これを白いご飯の上にかけて食べる。肉と野菜が染み出た滋味が卵に溶け込み、米との相性は抜群だった。
桜鍋を出す店はなぜ少なくなったのだろうか。
「昔は好物が馬肉というと、『遊郭に行くのが好き』と同じ意味に捉えられる風潮もあった。それで牛肉や豚肉のように広まらなかったのかもしれない」
中江さんは推測し、こう続けた。
「吉原はさまざまな文化が生まれた場所でもある。その意義や奥深さを感じてもらうためにも、桜鍋を残していきたい」と話す。
同店には多くの著名人が通ったことでも知られる。小説家の武者小路実篤、作曲家の團(だん)伊玖磨…。一品料理の中には、常連だったという芸術家の岡本太郎が考案した品もあるというから驚きだ。
馬肉は低脂肪な上に鉄分とコラーゲンが豊富で、「美容と健康に最適な栄養食」(中江さん)。新しい年も仕事などに「馬力」をかけて頑張ろう-。そんな験(げん)担ぎのためにも、伝統の桜鍋をぜひ味わってみてはいかがだろうか。(太田泰)