端的かつ簡潔に口から発せられる言葉は、飾ることも取り繕うこともない純粋で率直な思いだった。
「話をするのは苦手なんです。長くしゃべっても、なかなかうまく話せないので……」
決して話をするのが嫌いなわけではない。どう表現すればいいのか思いを巡らせ、言葉を探す。時間を掛けて、丁寧に答える様子は、むしろ好感を抱いた。
浦和で生まれ育った長倉幹樹は、ジュニアユース、ユースを浦和レッズのアカデミーで過ごした。
トップチームへの昇格が叶わず、大学へ進んでから7年——届いた浦和レッズからのオファーに胸は高鳴った。
「うれしかったです」
そのひと言に、思いは凝縮されているだろう。
「中高生のときにプレーしていたチームで、そのころから目標にしていたチームからのオファーだったので、だから、うれしかったんです」
昨季までプレーしていたアルビレックス新潟への感謝や思いもある。憧れのチームからのオファーも即断即決したわけではなかった。
「自分なりにいろいろと考えましたが、最終的には『行きたい』という気持ちになったので、浦和レッズへの移籍を決めました」
長倉は心に問いかけた。向き合うと、浦和レッズでプレーしたいと望んでいる自分がいた——。
「浦和レッズへの憧れは、もしかしたら昔のほうが強かったかもしれない。でも、オファーが届いて、あらためて考えてみたら、自分の気持ち的にも、浦和レッズに行きたかったんだな、浦和レッズでプレーしたかったんだなって思いました」
浦和レッズのアカデミーで過ごした6年間は、今のプレーにつながる「すべて」が詰まっている。
ただ当時は、その憧れも、目標も、はるか遠い世界のように思えていた。
今やチームメートになった原口元気や関根貴大は、アカデミーに加入したころにはすでにトップチームで活躍していた。彼らがアカデミー出身の生え抜き選手であることは、もちろん知っていたが、目標にできるほど、近い存在ではなかった。
「テレビで見る選手という感じで、自分がそうなりたいと思うようなことはなかったですね。それくらい距離感としては遠かったと思います」
同期には、橋岡大樹(現ルートン・タウンFC/イングランド)や荻原拓也がいる。早くからトップチームの練習に参加していたふたりからは刺激を受けたが、その一方で自分の力不足を感じさせられる存在でもあった。
「ふたりは世代別の日本代表に選ばれ、トップチームの練習にも早くから参加していたので、そうした存在が身近にいたことは良かったですけど、自分はふたりと同じ経験をすることが全くなかった」
トップチームの練習に参加したのも1度きり。それも大学進学を決めた高校卒業間近だった。
「ちょうど今くらいの時期ですよね。トップチームにケガ人が出た影響からか、人数が足りないと、沖縄で行われていたキャンプに急遽、呼ばれたんです。
そこで初めてトップチームの選手たちと一緒にプレーしたのですが、ボールを持ったら、パスを出すところがたくさんあったことを覚えています。何かプレーしやすいなって。それは記憶に残っています」
大学に入学したのは2018年だから、前年途中にミハイロ ペトロヴィッチ監督から堀孝史監督へと舵を切った時期だった。ボールを保持するそのサッカーに、長倉はレベルの高さを痛感した。
「ただ、トップに昇格できる可能性があるとか、そうした状態でトップチームの練習に参加したことは1度もなかった。当落線上にいたら、(昇格できなかったことも)悔しかったのかもしれませんが、もともとトップチームに昇格できるとは思っていなかったので、大学に進んで、そこからプロになろうと考えていました」
だが、その道のりは決して甘くはなかった。順天堂大学では、3つ年上の名古新太郎(現アビスパ福岡)が鹿島アントラーズに、2つ年上の旗手怜央(現セルティックFC/スコットランド)が川崎フロンターレに加入したが、同じような道を辿ることはできなかった。
「甘くはなかったですね。大学のサッカー部からは、J1だけでなく、J2やJ3も含めて、プロになった選手がたくさんいたので、身近な存在がプロになる環境ではありましたけど、自分にそのチャンスはなかったですね」
諦めることなく、選択したのは社会人リーグだった。関東サッカーリーグ1部の東京ユナイテッドFCに加入して、その道を模索した。
「長い道のりになるとは思いましたけど、何年かかってもプロになろうとは思っていました」
その覚悟があったから、まさに今がある。長倉は「運も良かった」と言うが、運や縁を引き寄せたのは、他でもない自分自身である。
「たまたま自分が出ていた試合を、ザスパ群馬の強化部の人が見てくれていたんです。加えて、当時、群馬のトップチームの監督をしていたのが、ユースで指導を受けた大槻(毅)さんでした。だから、大槻さんが監督をしていなければ、自分はプロになれなかったと思っています」
大槻監督(当時)から言われた「お前は、もっとやれる」という言葉が、その後の励みになった。
加入してすぐに明治安田J2リーグに出場すると、デビューから2戦目のベガルタ仙台戦で、ヘディングにより決勝点を決め、1-0の勝利に貢献した。
2023シーズン途中にはアルビレックス新潟に移籍。昨季は、リーグで5得点をマークしただけでなく、YBCルヴァンカップでも6得点を挙げて得点王になり、さらにその道をこじ開けた。
足もとを見つめて長倉は言う。
「先のことは考えずにここまでやってきました。そのとき、そのときのチームで頑張る。それしか考えていなかったかもしれない。だから、ようやく浦和レッズに辿り着いたなという気持ちはないというか。目の前のことをやって、一歩、一歩、進んできた感覚です」
結果を残してきたのにも、そこに理由がある。
「昨季もゴールを決められたのは、チームになじんだというか。そのチームに加入して、自分がそのチームのサッカーに入り込めたと思ったときが、一番、自分を出せるようになると思っています」
だから、浦和レッズでも——。
「周りのことが分からないと、コンビネーションも構築できないですし、自分自身のプレーも生きないですからね。だからと言って、特にこれをしているというのはないですけど、練習からチームメートのプレーや特長は見るようにしています」
プロ初ゴールをヘディングで決めたように、空中戦にも強く、素早いターンから力強いドリブルでゴールを決めることもできる。ストライカーとしてだけでなく、サイドでもプレーできるように、「与えられたポジションで頑張るだけです」と、言い切る。
新加入・復帰選手記者会見でも、「自分の特長は動き出しです」と語ったように、駆け引きを制して、相手DFの裏を突く動きからのゴールが最大の魅力だ。
アカデミーで過ごした6年間で培ったことについて「すべて」と簡潔に答えたが、今の彼を形成する原点があった。
「中学生(ジュニアユース)のときは、特に身体が小さかったので、かなり苦労しました。この時期が一番、人によって身体の成長に差があると思います。同じくらいの体格の選手もいましたけど、すでに身体ができあがっている選手もいました。
そのなかで、小さいながらに工夫して戦ってきたことは、今のプレーにも生きています。身体の大きな選手に勝つために、相手DFとの駆け引きについては、その当時から意識するようになりました。そこは間違いなく、今も生きていると思います」
動き出しの速さは、浦和レッズのアカデミーで培い、武器へと昇華させた彼の強みでもある。
最後に聞いた。
浦和レッズのユニフォームに再び袖を通すまで7年の年月がかかったが、その過程を回り道だったと思うのかどうかを——。
「もちろん、ストレートに昇格できることが一番いいと思いますけど、自分にとってはすべてが必要な時間だったと思います。自分にとっては、この道を進むのが一番早かったと思っています。それくらいその先々で身につけたものがたくさんありました」
一歩、一歩。着実に前へと進んでいく。
「先のことは考えずに、1試合、1試合、日々頑張っていきたいと思います」
練習試合で結果を残そうとも彼は「まだまだ」と言う。その姿勢は、憧れのチームの一員になっても変わらない。
(取材・文/原田大輔)