少年の手のひらは、汗でじっとりにじんでいた。
記憶がおぼろげな“もう一人のお母さん”に、どうしても聞きたいことがあった。
「なぜ、僕を育ててくれなかったんですか」
「僕は、予期せぬ妊娠で生まれたんですか」
東京都の大学4年生・青木龍生(りゅうき)さん(22)は当時、中学3年生の15歳だった。思春期の真っただ中。自分は何者なのかと悩むうち、生みの親に会って話を聞きたいと思った。
龍生さんは、特別養子縁組で血のつながらない親に育てられた。育ての親のことは大好きだ。愛情たっぷり、大切にされてきた自覚がある。
それでも、自分が生まれた訳を知らないと、前に進めない気がした。育ての母に思いを伝えると、こう背中を押された。
「そうだよね。会いたいよね」
そしてもう一人の母に、手紙をしたためた。最後はこう結んだ。
「自分のことをしっかりと知りたいんです」
いよいよ面会の日。汗のにじむ手で、ドアを開けた―。
15歳で妊娠、動いたおなかの影で「産もう」と決心
面会の1か月前。龍生さんからの手紙を手にした生みの親・まいさん(38)(仮名)は、思わずつばをのみこんで目を閉じた。妊娠してわが子を手放した時の痛みがよみがえったからだ。
中学3年生、15歳の冬だった。相手は、交際していた一つ上の先輩。別れた後に妊娠がわかった。母親は厳しく、言えないまま時間だけが過ぎた。
妊娠6か月になったころ、暗い部屋で懐中電灯の光を体にあててみた。部屋の壁に映ったおなかの影がぴくっと動いた。赤ちゃんが動く胎動。不安しかなかったけれど、うれしかった。産もうと決めた。
しかし、まいさんが妊娠したと知った母親は、「育てるのは難しい」と、特別養子縁組を仲介する民間あっせん機関の認定NPO法人「環(わ)の会」(東京)を探してきた。
「養子に出せば、子どもと二度と会えなくなる」。まいさんは出産までの1か月間、泣いてばかりいた。
面会で生みの母に送った名前入りのペンダント
面会は、「環の会」の立ち会いの下で行われた。
背丈は龍生さんが追い越していた。出産から15年が過ぎたまいさんは結婚し、2児の母親になっていた。
面会の少し前、龍生さんは育ての父から「思いがけない妊娠だったけど、お前を産みたいと思って、養子として託してくれたんだよ」と当時の生みの母の思いを聞かされていた。
生みの親が妊娠した時と同じ年齢になった息子なら、理解できるだろう。育ての父が伝えたのはそんな思いからだった。
緊張や照れもあり、会話はぎこちなかったが、それでも、龍生さんは自分とまいさんの目と鼻が似ていると感じた。「産んでくれたから今の自分がいる」という思いが湧き上がってきた。
乳児院にいた頃の写真を見せてくれたまいさんに、龍生さんはその場で、ペンダントを贈った。四角のプレートを斜めに切った手作りで、龍生さんとまいさんの2人の名前を彫った。片割れは、自分が身につける。
龍生さんにとって、母として思い浮かぶのは育ての母だが、「あの時、生みの親に会えて、自分は何者なのかという心のモヤモヤが晴れた。欠けていた心のピースが埋まった」と振り返る。
もらったペンダントをまいさんも大切に身に着けている。「育ての親の心が広いから交流できる」と感謝する。
精根尽きた不妊治療の果て、赤ちゃんを抱っこさせてあげたい
面会には、育ての両親も同行した。二人は、息子と生みの母の様子を見守りながら、ここまでの道のりを思い出していた。
悟さん(54)、由美子さん(55)(どちらも仮名)は、大学時代に出会い、結婚した。普通に子どもを授かるはずだと思っていた。でも、なかなか妊娠せず、20代後半から不妊治療を始めた。
人工授精に体外受精。3年間にも及んだ不妊治療で、できることならば何でもやった。でも、赤ちゃんには恵まれなかった。「精も、根も、お金も、すべて尽き果てました」。悟さんは当時を振り返る。
子どもがいなくても二人で楽しく生活する人生もあるよな。そんなふうに思うようになった。けれども、赤ちゃんのおむつのCMが流れるたびに涙ぐむ由美子さんの姿をみると、胸が張り裂けそうになった。
「かみさんになんとか赤ちゃんを抱っこさせてあげたいなあ」。「養子」というキーワードが頭に浮かんだ。インターネットで検索してみつけたのが「環の会」だった。
当時、養子制度の知識はほとんどなかったが、二人で説明会に足を運んだ。
真実を知らせないのは「子ども」のため?
特別養子縁組が日本に導入されたのは1988年。
環の会は、ソーシャルワーカーの横田和子さん(故人)らによって、その3年後の91年に設立された。
特別養子縁組は、貧困や病気など様々な事情で生みの親が育てられない子と、子を育てたい夫婦を結ぶ制度だ。育ての親の実子として戸籍に記載され、生みの親との法的な親子関係は終了する。児童相談所や民間のあっせん機関を通じて縁を探し、家庭裁判所(家裁)の審判を経て成立する。
当時は、育ての親が子どもに、生みの親が別にいると告げる「真実告知」をせず、実子と偽って育てることが主流だった。それは子どものためだとされていたが、真実を知らせたくない育ての親にとっても都合がよかった。
しかし、アメリカなど海外では、子どもの「出自を知る」権利を重視する考えが広まっていた。横田さんは、養子縁組をする時には、真実を告げることを前提にした。育ての親が生みの親のことを日常的に伝え続けることを、英語で告げるを意味する「tell」から「テリング」と名付けた。育ての親から子どもの写真や手紙を預かって届けるなど、生みの親と子どもがつながり続けることも大切にした。
偽りのない親子関係を築くとともに、子どものアイデンティティーの形成につなげるためだった。
説明会で、そうした環の会の考え方を熱弁した横田さんから、こう告げられた。
「うちは、予期せぬ妊娠をした人と、生まれた子を助ける会なんだ。あんたたちに、子どもを渡すための会じゃないんだ」
養子に託される子どもの性別も、障害の有無も選べないといわれた。二人は「それは当然」と受け入れた。自分たちが子どもを授かったとしても、病気の有無や性別はわからない。
「僕たちは子どもに会いたくて、苦労し、悲しみに暮れた。その期間が長かった分、子ども中心主義の考え方に共感しやすかったのかもしれません」と悟さんはいう。
泣きじゃくる「少女」にもらい泣き
説明会から約3か月後の2000年12月、横田さんから悟さんに電話があった。
「待っている赤ちゃんがいます。どうしますか」
「もちろん育てます」とすぐに返事をした。
都内の指定された乳児院を訪ねると、赤いジャージー姿で、龍生さんを抱っこするまいさんがいた。まるで、少女のようにみえた。
龍生さんは生後4か月。まいさんに似て色白だった。
ずっと泣いているまいさんに、二人は「大事に育てます」と伝え、一緒にもらい泣きした。
絵本で伝えた、もう一人の「まいママ」
由美子さんは、龍生さんが物心つく前から「テリング」をしてきた。
「あなたには、もう一人、産んでくれた『まいママ』がいるのよ」
同時に、「とっても、大好きだよ」、「ずっと一緒だよ」と何度も伝えてきた。
「りゅうちゃん」を迎えるまでの物語を手作りの絵本にして、3歳の誕生日から、毎晩のように読み聞かせた。せがまれるままに行った読み聞かせは1000回以上にのぼった。
幼稚園や学校の先生たち、近所の人たちにも、養子であることを隠さなかった。
縁組成立後、龍生さんは、まいさんと手紙や写真を交わし、小学校に入る前には1度、面会もしている。その都度、「環の会」が間に入った。
まいさんと面会して喜ぶ龍生さんの姿に、不安を感じなかったのかを聞くと、悟さん、由美子さんは「私たちに遠慮せずに、生みの親に会いたいと素直にいってくれる子に育ってよかった」と口をそろえた。
子どもが生みの親に会いたいといえるのは、帰る場所があるからだ。完璧ではないけれど、100%の気持ちで、血のつながらない龍生さんと向き合ってきた由美子さんはいう。
「遠慮はしてほしくないな。親子なんだから」
トラブル懸念する声にも「生みの親は子を捨てたわけではない」
環の会を設立した横田さんが2010年に卵巣がんにより58歳で亡くなった後も、生みの親と子どもが交流する取り組みは、遺志を継いだスタッフによって続けられている。
昨年だけでも、過去30年であっせんした410組のうち約100組で、写真や手紙の交換を仲介した。
環の会設立当時からのメンバーで、産婦人科医の星野寛美代表(61)は、「生みの親は子どもの幸せを考えて託しており、子を捨てたわけではない。交流は、子どもが自分を肯定することにつながる」と意義を説明する。
ただ、同会のように交流をよしとするあっせん機関はまれだ。生みの親との関わりで、育ての親との親子関係が不安定になると考え、トラブルを懸念する声が強いからだ。ある民間機関の関係者は「生活に行き詰まり、お金を無心する生みの親もいる」と打ち明ける。
生みの親との交流をルール化、他国の例は…
イギリスやアメリカ、ドイツでは、トラブル防止のために、交流のルールを定める。
アメリカの多くの州では、当事者が合意した内容をまとめた文書を裁判所に提出。定めた通りに手紙の交換や面会を行うことになっている。
ドイツでは昨年4月、あっせん機関に対し、生みの親との交流の支援を促す法律ができた。縁組の成立後に、生みの親と育ての親の合意の下、どの程度の頻度で会えるかを記録することが求められる。
韓国では、生みの親の名前や連絡先、縁組の経緯などの記録を政府機関がデータベース化、希望する養子に提供する制度を法制化している。生みの親の同意が得られない場合は、氏名などの個人情報は伝えず、養子が未成年者である間は育ての親の同意が必要――などのルールがある。
一方、日本では、こうしたルールや記録を残す仕組みはなく、対応方法は民間機関でまちまちだ。児童相談所が交流を支援することはほとんどない。
日本社会事業大の宮島清客員教授(子ども家庭福祉論)は、「交流するならば、事前に関係者が取り決めを文書にした上で、子どもの利益を代弁できる専門家が仲介すべきだ。日本でも公的なルールが必要」と話している。
生みの親について聞かれたら?
龍生さんを養子として迎えた悟さん・由美子さんは、息子が生みの親のことを口に出しやすい雰囲気づくりを心がけてきた。
生みの親の話題になって親が嫌な顔をしたら、息子はそれを察するからだ。
由美子さんはいう。「親子げんかで口をきかない時でも、まいさんの話題になったら、向き合って会話をしようと思っていました」
特別養子縁組は、制度の導入から33年間で1万6722件が成立しているが、交流どころか、生みの親に関する情報がほとんど得られないケースも少なくない。
国連の「子どもの権利条約」では、「子どもはできる限り父母を知る権利がある」と記されている。日本も1994年にこの条約を批准しているが、「出自を知る」権利は法制化されていない。
性暴力で妊娠の場合も…生みの親のプライバシーは
生みの親に会いたいという龍生さんの思いについて、育ての母である由美子さんはこう語る。
「生みの親に会いたいと思うのは自然なこと。私たちはその気持ちを大事にしてきました。ただ、子どもを託した生みの親は様々な事情を抱えている可能性があり、会いたい気持ちだけで突っ走ってはいけないと思います」
生みの親を知る子の権利は、生んだ親のプライバシーを明かすことでもある。
身元がわかるとなれば、かえって赤ちゃんの遺棄や殺人を助長しかねないという指摘がある。性暴力による妊娠など複雑なケースもある。「育ての親がいるのだから、生みの親は忘れた方がいい」という考えも根強い。
匿名の第三者の精子を使った不妊治療で生まれた子どもや、病院以外に身元を明かさずに出産できる「内密出産」でも、出自を知る権利が議論になっている。
由美子さんは「環の会」のような第三者が仲介することが大事だと感じている。
「成長した子どもが生みの親のことを知りたい、会いたいと思った時、その子の年齢に合わせて相談に応じてくれる窓口があるといい。育ての親にはいいにくいこともあるでしょうから」
社会人になる前に、両方の親に伝えたい言葉
龍生さんは来春、大学を卒業する。
「ここまで育ててくれた両親には感謝しかありません」と照れ笑いする。
ずっと、父の日や母の日、両親の誕生日に感謝の言葉とプレゼントを欠かさなかった。
養子として迎えてくれたからではない。両親が大好きだからだ。
「親子の絆は時間の積み重ねでできるものだと思う。血のつながりは関係ありません」
大人になり、まいさんのことも理解できるようになった。
「赤ちゃんを手放すのは悲しいことだったと思う。でも、15歳で産むことをあきらめず、養子として託してくれたのは、僕のためを思った選択だった。すべてが帳消しになるくらいラッキーなことです」
久しぶりに、まいさんに手紙を書こうと思っている。
「元気ですか。もうすぐ社会人になります。桜が咲く頃、会いましょう」と。
(読売新聞医療部、加納昭彦)
※この記事は、読売新聞オンラインによるLINE NEWS向け特別企画です。