津波に流された家屋が波間を漂い、海底には車が折り重なっている。
ダム湖に沈む町のような海中を潜っていき、車を引き揚げるためのワイヤーをくくりつける。
「ご遺体は車の中から見つかることが多かったです。ショックでしたよね。当たり前ではない光景が広がっていました」
2011年 高橋さん提供
宮城県女川町。
東日本大震災の津波により615人が亡くなり、今も257人の行方がわからないままだ。
ダイバーの高橋正祥(まさよし)さん(42)は、発生当時から今も、ボランティアで海中の捜索を続けている。
神奈川・湘南のダイビングショップにいた彼は、なぜ故郷の海に戻ったのか。
多くの命をのみ込んだ海に、11年半に渡って潜り続けたからこそ見えてきた、数々の「変化」があった。
何か少しでも手がかりを
「このあたりは車が9台くらい沈んでいる場所なので、重点的に捜していきます」
この日捜索したのは、水深36メートルの海底。
視界は悪い。危険も伴う。海中での捜索は簡単なことではない。
「僕たちは水深30mとか40mのところを捜索しているので、1回15分くらいしか潜れない。時間はかかりますね」
海に潜って捜索する高橋さん
体内には窒素がたまる。1日に潜るのは2回が限界だ。
集中力を高め、海の中で目を凝らす。
「月に1回ずつ捜索していて、見つからない時の方が多いんですけど、やり続けていく以外ないかなと。せめて僕たちぐらいは続けていかなきゃという使命感みたいな感じですかね。まだまだ可能性はあると思うし、これからも続けていかないと」
言葉を失った、あの光景
高橋さんは仙台市出身だ。幼い頃から「宮城の海」と触れ合ってきた。東日本大震災が発生した時は、神奈川県葉山町のダイビングショップに勤めていた。すぐにふるさとへ駆けつけた。
「あの光景を見て言葉が出なかったですね。でも1ダイバーとして何ができるのかを考えた時、行方不明者の捜索に、がれきの撤去。自分ができることはそれかなということで始めたんですよね」
高橋さんは、全国から集まったダイバーの行方不明者捜索チームに参加した。
「ショックでしたよね。車が沈んでいたり、家が沈んでいたり。重油も混ざって、真っ黒い土も多かった。遺留品を見つけても匂いが強いし、スーツも臭いがとれない。生態系もほとんど壊れていました」
砂浜では親子が遊び、沖では漁師が網を手繰る。ひと夏の思い出、多くの恵み。人々の営みを支えていた、空気のようにそこにあった海。
「震災後、仕事で沖縄に行った時も、全然楽しくなかったんですよ。ツアーでダイビングのお客さんを楽しませる側なのに全然楽しめない自分がいて」
海底に残る震災がれき
高橋さんがダイビングと出会ったのは2004年。
ワーキングホリデーで訪れたオーストラリアでインストラクターの免許をとった。
その後もグアム、サイパン、湘南でレジャーダイビングの仕事をしながら、海の魅力にどんどんはまっていった。海の中はどこまでも面白かった。
しかし、あの日を境に、自分の中で「海」に対する思いが変わってしまった。
向き合うしかない
そして高橋さんは、一大決心をする。勤めていた葉山のダイビングショップを辞め、故郷に戻って開業することに決めたのだ。
震災直後には全国からボランティアのダイバーがやってきたが、長くは続かないと思っていた。
「もともとダイバー人口は宮城県、東北は少ないんですよ。沖縄とか東京から通いでボランティアを続けている。5年も6年も続けるってけっこう大変なことだと思うので、絶対減ってくるなと最初から思っていた」
地元のダイバーを育成しなければならない。そのためには、拠点が必要だ。
2012年7月に石巻市で立ち上げたのが「ハイブリッジ」。2015年12月、女川駅前に完成した商店街に移転した。
自らの名字を英語にした店名には、「東北の海の懸け橋になりたい」との思いを込めた。
「葛藤はありました。でもあの時はやるしかないという気持ちだった記憶があります。でも決断して良かったなとは思いますね」
大切な人やものを奪った海
そんな高橋さんに、「弟子入り」した人がいる。
高松康雄さん(65)は行方不明の妻を探すため、自ら潜水士の資格を取ろうと、震災2年後に高橋さんを訪ねた。
「決意というか意思が強い方だなと思って。でも最初の頃は本当に悩んで悩んで来たという感じでした。僕ができることはお手伝いしますよというところから指導させていただきました」
高松さんは地元の銀行に勤めていた妻と、ドライブをするのが何より好きだった。
海沿いの道を行きながら、取り留めもないことを話す。気仙沼を走っていた時、妻が突然ふかひれラーメンを食べたいと言い出して店に立ち寄った。家族で海の幸を味わいながら笑い合う。何気ない日常が、愛おしかった。
高松さんは航空自衛隊を定年で退官した後、2011年6月からバスの運転手として女川で働き始めた。妻が行方不明になってから、約3カ月経っていた。
「運転中に海が見えると涙が出てきたり、というのはありましたね。もちろんすぐ涙払って前は見ているんですけど」
恨んでも仕方ないとは思っても、海が憎かった。
被災地には、いまだに海を見ることができない人がいる。テレビに津波の映像が流れると、すっと目をそらす人がいる。海の近くではもう生活できないと、内陸に移転した人も少なくない。
見つけた「アルバムみたいなもの」
この日、高松さんが海中の捜索で何かを見つけた。
「何かありましたか?」
「アルバムみたいなものが」
陸に上がり、水で泥を洗い流しながら、中身を確認する。
「アルバムみたいなもの」を発見
「病院関係のファイルみたいな…。でもわからないな」
この日見つけたものは行方不明者につながる手がかりにはならなかった。
それでも、「自らの手で捜索に行ける」という事実が、高松さんの支えになっている。
「本当に高橋さんがいなかったらダイビングなんてできなかったでしょうね。高橋さんがいるから妻を捜すことができる。大切な存在ですね」
徐々に戻ってきた、「あの頃の海」
震災から5年が経った頃から海中のがれき撤去に充てられる国の予算は減り、高橋さんの撤去作業は少なくなっていった。それでも、今でも漁協などから依頼を受け、撤去作業は継続している。
いまだに海底には「震災がれき」は残っているが、海の中は震災前の姿を取り戻しつつある。
宮城県内の海水浴場も次々に再開した。高橋さんも「海に遊びにくる人の姿も増えてきた」と感じている。
「地元の海が被災地の海と言われるようになった。震災後には、子供は海に入っちゃいけないと言われるようになってしまった。でもやっぱり海の回復力はすごいです。震災当時から、子供たちにきれいな海、遊べる海を見せてあげたいと思っていましたが、今では、海藻も増え、ホヤも増えてけっこう豊かな海に戻ってきている感じがします」
多くの困難を抱えながらも、被災した漁港はほぼ完全に復旧し、震災前より生産高を伸ばす養殖業もある。
宮城の海を見に来て
高橋さんは今、レジャーダイビングにも力を入れている。この日は、東京や北海道から訪れたダイバーを女川の海に案内した。
目玉は、「ダンゴウオ」だ。その名の通り団子のようなずんぐりむっくりの姿と、愛くるしい目がダイバーに大人気の魚だ。
ここ女川では、1年を通してその姿を見ることができる。
ダンゴウオ
「宮城の海の魅力は豊富な水産物と四季があること。ウニ、ホヤ、カキ、ホタテ、ワカメ。秋にはイクラをたっぷり抱えたサケ。1年を通して季節ごとに違う食べ物があるってなかなかないと思うんですよね。他の場所では見られない魚が宮城の海では見られる。
ダイビングというと沖縄とか海外というイメージかと思うんですけど、まず地元の海から、震災から回復した宮城の海を多くの人に知ってほしい」
宮城の海には、リゾート地とは違う魅力があふれている。
海中を案内する高橋さん
海の楽しさを伝え続ける
震災後、海の中の変化を見続けてきた高橋さんが危惧していることがある。
女川の海にも「陸で捨てられたごみ」が増えていることだ。
「がれきはなくなりつつあるのにごみが増えてきているのは、ショックですよね。50年後には魚がいなくなるとか、プラスチックの海になるとか言われているじゃないですか。でもそれって今生きている僕たちがどうにかしなきゃいけないと思いますよ」
定期的にビーチクリーンに出向き、自分にできる範囲で海岸をきれいにしている。
東日本大震災から11年半が経つ。行方不明者の捜索、地元ダイバーの育成、環境保全…。やりたいこと、やらなければならないことは山ほどある。
これからも宮城の海と向き合い、宮城の海の魅力を発信する。
「今は一生、女川を拠点に活動していく気持ちです。もちろん震災は忘れてはいけないけど、子供たちに地元の海の楽しさとか、地元の海はいいよって誇りを持ってほしいと思っていて、子供や孫の世代にどう残していくかということを、僕たち大人が考えていかないといけないかなと思います」
2022年7月。ハイブリッジは開業10周年を迎えた。
決して流されることのない強い思いを胸に、高橋さんはきょうも海に潜る。
(取材・執筆 仙台放送報道部 大山琢也)
※この記事は、仙台放送によるLINE NEWS向け特別企画です。