2019年10月、福島県いわき市を襲った台風による集中豪雨。江戸時代から続く農家の8代目・白石長利さんは、その時に起きた川の氾濫によって、すべてを失った。
家族4人で暮らす自宅、苗が根付いた畑、田んぼは水没、ハウスや農機具は泥に埋まり、収入は絶えた。
けれども白石さんは「人間から見れば水害だけど、自然からすれば、浄化とも言えますから」と、当時を笑顔で振り返る。
洪水で畑に運ばれた泥は雑菌が混じっているため、被害のあった田畑は、半年間は何も育てられなくなる。半面、泥は栄養も含む。おかげで台風から3年目の今年は、以前は使っていた有機肥料が必要なかったという。
家や田畑を奪った洪水は、益をもたらす一面もあるというのだ。
「それと、2011年の震災がきっかけでできた繋がりに、台風の時はすごく助けられました。全国から支援物資がすぐ集まって、たくさんのボランティアも来てくれた」
なんという強さだろう。震災の時も、こんな風に乗り越えてきたのだろうか。その問いに、白石さんは首を振って、答えた。
「あの時とは全然違います。震災の後は、絶望しかありませんでした。世の中が白と黒にしか見えなくなった」
地震、津波、原発事故、そして
11年前、福島の住民は、東日本大震災による大きな被害を受けた。地震、津波、原発事故、そして放射能汚染による避難生活。
しかし、そのすべてから免れたにもかかわらず、日常が壊され、仕事がなくなり、心を痛めつけられた人たちがいた。
根も葉もない風評被害にさらされ、取引先や客を失い、収入が途絶えた。未来への希望が持てなくなった。この土地と生きていこうと、無農薬無化学肥料の自然農法を始めて10年、白石さんもその一人だった。
いわき市にある白石さんの畑は、海から約20キロほど離れており、同じ市内でも津波が押し寄せた久之浜や四倉町と異なり、地震や津波の影響は受けなかった。福島原子力発電所で爆発事故があった時も、直後は街も行政も混乱したが、その後、いわき市は福島県内の避難場所になった。
「東京と変わらない」放射線量
いわき市の清水市長によれば、「当時は市民のだれもが放射性物質がどう広がっていくのかを知らなかった。同心円で広がると思い、『逃げろ逃げろ』で、街は一時ゴーストタウンと化した」が、その後、放射性物質が風向きや地形で広がり方が違うことが分かったという。
落ち着きを取り戻した自治体が畑や街の空間線量率を測定すると、東京のそれと大差ないことがわかった。
いわき市の空間線量率は0.06マイクロシーベルトで、シンガポールやロンドンの0.1マイクロシーベルトや、今冬オリンピックを開催した北京の0.07マイクロシーベルトよりも低い(ロンドンは2018年1月、シンガポール、北京は2019年9月、福島県内各所は2020年3月時点の数値。復興庁ウェブサイトより)。 そして、白石さんの畑や自宅近辺の空間線量率もまた、基準以下だった。
汚染されていない畑を除染する理由
地震から3か月間は、休業を余儀なくされ、白石さんは、慣れない長距離トラックで生活費を稼いだ。
代々農家で、当たり前のように継いだ農業の仕事だったが、畑から離れて、自分がどれだけこの仕事が好きだったか思い知らされた。5月下旬に出荷停止が解除され、畑の線量に問題ないことがわかると、白石さんは飛ぶように畑に戻った。早く再開したくてたまらなかった。
ところがその直後に、近所の農家が、畑の除染をしたという話を聞いた。早々に自治体と連携して、毎日、空間線量率を測定していた白石さんは、どこの畑の線量が高く、またどこが基準値以下であるかよく知っていた。
除染をした、といううちの一軒は、基準値を下回っていた。なのに、なぜ。理由を問う白石さんに、その生産者は、こう言ったという。
「除染したと言えば、安心して買ってもらえる」
畑の土1センチ作るのに100年かかる
空間線量率は、放射性セシウムの値を基準にしている。白石さんの畑や、近くの農家がもつ畑も、自治体のウェブサイトを見れば、なんの問題もないことがわかる。
だが、取引業者は、科学的な数値より、「除染した」事実を重視した。そのため、健康な畑にもかかわらず、表土を剥がすのだ。
一方で白石さんは、そうした除染に追随しなかった。なぜなら、表土を5センチも剥がせば、畑の状態が大きく変わる。
農家の間では、「1センチの土を作るのに100年かかる」といわれる。
肥沃で豊かな土にすることが、どれだけ大変なことかを物語っている。だから白石さんは意味のない除染をしなかった。
かわりに、行政の職員たちと、いわき市の畑が安全であることを、どう知らせようか考えた。
そして、地域の生産者とともに、自分たちの畑の、いいことも悪いことも、全部正直に公表することにした。
「いわき見える化プロジェクト」を立ち上げ、いわき市の他の生産者とともに、これから来るであろう風評被害とどう戦うか、話し合った。
福島県産の食材にこだわるシェフ
その取り組みに賛同し、参加するようになったのが、レストランオーナーシェフの萩春朋さんだった。
「福島県産」が避けられ、多くの取引業者が離れていく中で、萩さんは反対に、「福島県産のものだけでやっていく」と決め、足しげく生産者のところに通っていたのだ。逆風にさらされるような決断を、なぜ、萩さんはしたのか。
フランスで修業後、出身地のいわき市でレストランを開店した萩さんは、卒業した調理師学校や都内の名のあるシェフたちが注目する腕前だ。
2000年の開店以来、地元でも人気を集めていたが、2009年のリーマンショックで客数を大きく減らした。
客が来なくなった理由を、萩さんは「お客様にとっては、うちの店でなくてもよかったんです」と言う。手頃で手軽な店、でも代わりはいくらでもある、客からそう思われていたことに気づいたというのだ。
萩さんは自分自身に問い直した。なぜこの地に店を出したのか。鮮度抜群の食材が手に入る土地の利を、自分は生かしていたか、と。
母に言われた「あんたの野菜料理はまずい」
「農家だった母方の実家では、自分が食卓に着いてから、母は畑のいんげんや枝豆を採りに行っていました。文字通り採れたて、ゆでたてを食べていたんです。
鮮度が一番、味付けは二の次という母から、『あんたの野菜料理はまずい』と言われました。自分は鮮度の価値を忘れて、調理法に頼りすぎていた。漁港まで15分、畑まで10分の場所にいながら、なぜ、鮮度の価値に気づかなかったんだろう」(萩さん談)
リーマンショックのその翌年、萩さんはレストランの名を「HAGI」に変えた。そして、いわき市の野菜、魚、肉、果物、酒の生産者を回り、彼らの話を聞き、食材になる前の、農業や漁業についても勉強し始めた。
県産の食材を主役にし、鮮度を生かした料理をしたいと思ったのだ。けれどもその矢先に、東日本大震災が起きた。
予約はすべてキャンセル、街はゴーストタウンに
地震や津波の被害は、白石さん同様、「HAGI」もほとんど受けなかった。だが、翌日の発電所の事故で、状況は一変したという。
「放射能漏れの噂が広まり、たった一日で街はゴーストタウンになりました。近所の住民たちはみんな避難して、外を走るのは自衛隊の車だけ。
人がいないので、物資はなにも入ってこない。うちは幸いレストランで、1か月分くらいの食材はあったので、避難はしませんでした。
どうせお客が来なければ、商売はできない。だったら、自分の故郷がどうなっていくのか、見届けてやろうという気持ちでした」
人のいない街で、お客の来ない店を守る萩さん。収入は絶たれても、支払いは続く。
「最初は貯金がなくなっていくのを見ながら、不安と焦りで怖くなりました。でも、ゼロになってしまうと怖くなくなるんです。もうそれ以上失うものがないから。
10年以上一緒にやってきた従業員も雇えなくなり、店を手放すか、このまま死ぬか、の選択を迫られました。でも決断ができず、毎日やることがないまま、生産者の畑を見に行くようになって……。作業を手伝っている中で、白石さんと出会いました」
収穫できなかったねぎの行方
震災から2か月半、白石さんの畑には、収穫できなかったねぎが花を咲かせていた。
線量は全く問題はなかったが、出荷先がなく、畑で育ちすぎたのだ。「ねぎ坊主」と呼ばれる花が咲くと、繊維が固くなり、売り物にはならない。だが、味は濃い。
白石さんは、畑にいる萩さんに、このねぎを何とかできないかと尋ねた。商売の相談ではない。自然農法で育ったねぎは、同じ畑にあっても、それぞれに個性があって、かわいい。
せっかくここまで育ったねぎを、誰にも食べてもらえないまま廃棄するのは、しのびないと思う、白石さんの親心だ。
萩さんはすぐに、ねぎだれを作ってくれたが、味見して、白石さんはこう返したという。
「うまいけど、他にもありそう(な商品)です。他と一緒なら、今、福島県産の商品は選んでもらえない。ほかの3倍も4倍も努力して、価値を見出さないと、買ってもらえないと思うんです」
白石さんは、バーベキューで、畑から抜いたねぎを火の上で真っ黒に焼き、焦げた外側をむいて、中のとろとろになった白くて甘いところを味わう、生産者の食べ方を話した。
それを聞き、数日後に萩さんが作ってきたのが「焼きねぎドレッシング」だ。
もともと売る気のなかった白石さんは、できたドレッシング200本全部を、震災でお世話になった方々に配った。
すると、ドレッシングを食べた知人たちから、「あんなにおいしいのはほかにないから、商品化したほうがいい」という声が集まったという。
気をよくした二人は、翌年は今度は商品として、4000本作った。それは、白石さんの発信したSNSですぐに売り切れ、買えなかった人たちから「幻のドレッシング」と呼ばれるようになった。
畑で食べる美味しさを届けたい
これをきっかけに、萩さんと白石さんは、互いの最良のパートナーとなった。二人とも収入はなく、余震や発電所の二次爆発の不安を抱えながら、将来の話をし続けたという。
白石さんは、福島県産の食材に対する風評被害が続くなかも、胸を張って、畑を耕し、食材を育てた。畑の線量は基準値以下でも、野菜は売れない。それでも、見ていてくれる人がいることを信じて、畑と食材のすべてを隠さず公表し続けた。
萩さんは、白石さんや、同じように風評被害に苦しみながらも、よりよい食材を生産し続ける現場に足を運び、畑で食べる採れたての美味しさを、どうテーブルで再現するか、考えに考えた。
土や野菜の力を信じて、できるだけ手を出さないようにしながら、根気よく見守る白石さんと過ごしているうちに、萩さんは、食材をより深く知ることになった。
季節が過ぎ、震災から2年が経つ頃、HAGIに客が戻ってきた。
だが、白石さんや他の生産者の状況は苦しくなる一方だった。
畑の線量に問題がないと分かっても、震災前の取引先は1件残して、他すべてから取引中止を申し入れられたままだった。福島の生産者に逆風が吹く中、HAGIだけが、県産の食材を看板に掲げた。
食材の出自を聞かれれば、地域や生産者の名とともに、その食材がいかにいいものかを熱心に伝えた。地震や津波の被害で、食材の生産が追い付かない間は、客数を一日1組に絞って、生産者の回復を待った。
世界に県産食材の価値を伝えたい
こうした功績が評され、2013年にフランスに招かれた萩さんは、エリーゼ宮でフランス大統領やモナコ公国大公に料理を披露した。
まだ多数の国が輸入制限をしている中で、萩さんは福島の食材を使い、県産食材を紹介し、喝采をあびたという。
グルメサイトで高く評価され、有名な食通家が訪れ、数か月先の予約も入るようになっても、萩さんは相変わらず畑や漁港や酒蔵を回り、一人でキッチンに立つ。
また、「焼きねぎドレッシング」に続く商品の開発も続けており、県産の食材をアピールするイベントにも積極的に参加する。休むことなく次々と仕事を引き受ける萩さんに、今後について聞いてみた。
「福島県産の食材のよさを伝えていきたいです。僕は福島にいて、畑で食べる採れたての野菜や、今朝捕れた魚のおいしさを知っています。
素材のまま、自然のままでも十分おいしい食材を前に、料理人として何ができるのか、何をすべきなのか。それを考えるのが、自分の役割じゃないかと思うんです」
福島と周辺県で生産された食品の輸入制限をしていたアメリカやEUは、昨年9月、ようやく制限の全面解除や規制緩和を決めた。今年2月には、台湾も輸入禁止の解除を発表した。
「フクシマ」とその周辺の食品は、健康被害をもたらすと考えていた他の国々でも、現在はデータに基づいてリスクの高い食品を制限する規制へと徐々に移行しているという。
震災から11年、白石さん、萩さんらが切り開いた後ろには、確実に道ができている。
HAGI
福島県いわき市内郷御台境町鬼越171-10
TEL : 0246-26-5174
営業時間 LUNCH 12:00~ / DINNER 18:30〜(昼・夜ともに完全予約制)
この記事は、現代ビジネスによるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。