「マンガを描きたい」「母親に会いたい」……美しい海を前に、誰もが抱くような願望を語り合う若者たち。しかし、次の瞬間には機関銃や火炎放射器で攻め立てられ、命がけの戦いを強いられる……。
太平洋戦争の激戦を描いたマンガ『ペリリュー 楽園のゲルニカ』が、連載開始から6年で発行部数110万部と、戦争マンガとしては異例のヒットとなっています。
2021年7月にはスピンオフマンガ『ペリリュー –外伝–』が連載開始され、アニメ化も発表されている本作が描いているのは、多くの日本人が忘れ去ってしまった「ペリリュー島の戦い」です。
経験者が激減しつつある77年前の戦争。「忘れ去られようとしている悲劇」に光を当てた作品誕生の背景には、現代に戦争を伝えるためのさまざまな工夫と葛藤がありました。
「狂気の戦場」と呼ばれた島
マンガの舞台となるペリリュー島は、フィリピンの東、パラオ諸島に浮かぶ小島。パラオ諸島は第一次世界大戦後から太平洋戦争終結まで日本統治下にあった影響で、日本文化が深く根付き、一部地域では日本語が公用語として認められているほどです。
戦時中、ペリリュー島には日本軍の重要拠点である大規模飛行場がありました。これを守備する日本兵約1万と米兵約4万が激突、日米合わせて約2万もの死傷者が出た「狂気の戦場」と呼ばれています。
日本兵は少ない食糧が底をついた後も抗戦を続け、飢えに苦しみながら終戦後も洞窟やジャングルに潜伏し続けました。戦いが終結したのは2年後。帰国できたのはわずか34名でした。ペリリュー島には、今も日本兵の遺骨が多数眠っているとされます。
このマンガの作者は、終戦から30年経った1975年生まれの武田一義さん。
本作は、そんな過酷な環境におかれた若者たちの日常と戦いを、史実をもとに脚色し、その実態をわかりやすく伝えていると賞賛を集めています。
主人公の田丸一等兵を中心に、飢えと病気に苦しみ、それでも生き残ることを信じて過酷な環境で懸命に過ごす若者たちの姿を、三等身の可愛い絵柄で活写。戦闘だけでなく、事故や病気で多くの若い命が失われたことを描いています。
単行本11巻まで続いた本編では、日本軍側の視点を中心に、苛烈な戦闘で形もわからなくなるくらいに吹き飛ぶ肉体や、水と食糧がなく餓死していく者、病院のない島で病気にかかり、なすすべなく死んでいく様などが描き出されました。
今年7月に発売された『ペリリュー ―外伝―』第1巻では、アメリカ側やペリリュー島の島民視点からのエピソードも描かれ、戦争の悲惨さを多角的に伝えています。
武田さんがペリリュー島の戦いについて知ったのは、2015年の天皇・皇后両陛下(現上皇ご夫妻)のペリリュー島訪問がきっかけでした。
武田さんは戦争を体験していない世代ですが、マンガで戦争を描こうと思った動機の源は、子供の頃に触れたマンガやアニメ、映画など、フィクションで描かれた戦争にあるといいます。戦争体験者の生々しい感覚が心に強く刻まれ、そんな疑似体験から「人が極限状態に置かれる戦争を通して、人間や社会の本質を描けるのではないか」と、作家として考えたそうです。
戦死者の最期を「盛る」役割とは
しかし、武田さんは戦争を経験していない世代。戦争を知らない世代が戦争を伝えるためには、物語や登場人物に工夫が必要でした。
そのひとつが、主人公の田丸を「功績係」という任務に就かせたこと。
功績係とは、誰がどんな功績を戦場で挙げたかを記録する係のこと。実際に当時存在した役職です。しかし、時には記録を残すだけでなく、ある特別な任務を任されることもありました。それは、兵の名誉を守るために、その最期を「脚色」することです。
第一話、主人公の田丸は同期の小山一等兵と仲良く炊事任務をこなしています。小山は戦争で勇ましく死んだとされる父のように立派に死にたいんだと田丸に告げますが、その矢先、空襲の音に驚き転び、岩に頭をぶつけて死んでしまいます。
その日、上官は田丸に「遺族の気持ちを考えれば、転んで頭をぶつけたなどとは書けん。せめて手紙の中だけでも」と涙ながらに小山の無念を語り、遺族宛てに「最期の雄姿」を捏造(ねつぞう)するよう命じるのです。
この「戦死者の最期を盛る」話を、作品において重要な最初のエピソードとして選んだことには理由があります。
「僕らは戦争を直接知らない。当時の人が書いたものや証言が本当なのか、本当だとしてもどの程度本当なのか、僕らが後世に伝える時、そこからまず考える必要があります」
英雄的行動を美談として広めて戦意高揚させる例は、戦争当時も数多くありました。たとえば、1932年、中国の上海事変で、爆薬を詰めた破壊筒を担いで敵陣の鉄条網に突っ込み、戦死後「英雄」とたたえられた「爆弾三勇士」などが有名です。
武田さんは、資料や証言に触れる場合だけではなく、マンガや小説、映画のような物語を読む時にも情報を鵜呑みにしないことが重要だと考えます。うその手紙を書いた後、田丸は小山の父の「最期の雄姿」も創作されたものではと疑念を持ちますが、武田さんは「このマンガを読む読者も、同じ態度でいてほしい」と説きます。
また、現代の読者に共感を持って読んでもらうために、田丸をマンガ家志望にしたといいます。「当時の職業は現代人には想像しにくいものもあるが、マンガ家なら小学生でも想像しやすい」と考えたからです。
「マンガなんかで伝えられるのか?」戦争体験者からの痛烈な批判
様々な工夫を凝らし、戦争の実態を描いた武田さんですが、連載中には多くの葛藤を抱えていました。それは執筆にあたって、戦争体験者に聞き取り調査を行っていたときに直面します。
物語は太平洋戦争の時代から現代に舞台を移し、主人公・田丸の孫がペリリュー島の戦いを後世に伝えるため、生存者に取材をする場面が描かれます。
「マンガ…話を聞けば体験していなくても描けるとお考えですか?」
作中で取材拒否される場面に登場するこのセリフは、まさに武田さんが自身の聞き取り調査中に、戦争体験者から実際に言われたものです。
「予想していた言葉でしたが、協力的な方が続いた後だったので衝撃的でした」
武田さんは葛藤を抱えることになります。
「連載中はずっと後ろめたさがありました。取材しているとはいえ想像も交えて描くのですから、本来は批判されても仕方ありません。『自分に戦争を描く資格があるのか』と、ずっと問いかけ続けていました」
巨匠ちばてつやさんが「腹を立てた」こと
戦争体験世代のマンガ家も、かつて同じような思いを抱いていました。
『あしたのジョー』で知られるちばてつやさんは、幼い頃、満州で終戦を迎え、命からがら家族とともに日本に引き揚げてきた経験を持ちます。ちばさんは武田さんの作品を、「やわらかいキャラクターでクスッとさせながら、ドキリとさせる表現を織り込んでいて素晴らしい表現力」だと絶賛し、マンガの帯にも推薦文を寄せています。
そんなちばさんは、現在連載中の自伝マンガ『ひねもすのたり日記』で、幼少期の引き揚げ体験を綴っていますが、若い頃には特攻隊を題材にした『紫電改のタカ』も発表しています。その時、ちばさんとマンガ編集者の間でのせめぎ合いがあったと言います。
「連載中、人気が落ちてきた時、担当編集にもっと華やかで面白いものを描けと言われました。それで、実際にはあり得ないような派手な戦いを描いてしまったんです。戦争は面白いものじゃないのに、面白く描けと言われて腹が立ちました。『興味本位の創作をしてしまって申し訳ありません』と、心の中で謝り続けながら描いていました」
それは、特攻隊になった若者たちの無念や悲しみを描きたかったちばさんの本意ではありませんでした。担当編集者ももしかすると同じ気持ちだったかもしれません。しかし、連載が打ち切られてしまえば、彼らの気持ちを描くことは当然できなくなります。『紫電改のタカ』はそんな葛藤のなかで生まれた作品だったのです。
フィクションだから語れる真実とは
申し訳ないと思いつつも、ちばさんも武田さんもなぜ戦争を描き続けたのでしょうか。
ちばさんは「悲惨な戦争に出征された人たちがどんな気持ちだったのかを、なんとか伝えたい」という思いで連載を続けていたと言います。
一方、武田さんは「創作は後ろめたいけれど、フィクションではないと描けない真実もあるから」と語ります。
その気づきを与えたのは、『ペリリュー』の監修担当である、戦史研究家の平塚柾緒さんでした。
平塚さんはノンフィクション作家として数多くの著作を発表されています。ですが、聞き取り調査のなかで得られたことをありのまま書いてしまうと、証言者の名誉を傷つけてしまったり、その後の人生に悪影響を与えたりしてしまう危険性もあります。
「事実だからといって、全てを書けるわけではない。でも、マンガというフィクションだからこそ語れる真実もありますよ」
そんな平塚さんの言葉に、武田さんは示唆されたというのです。
あえて創作も交えてフィクションで語る試みは、遺族の人にも届いたと武田さんは言います。
「祖父がどんな戦争体験をしたのかちゃんと聞いたことはなかったので、このマンガでようやく理解できました……という内容のお手紙を遺族の方からいただきました。体験者のなかには、家族だからこそ言えないような体験をしてきた人もいるんです」
物語の終盤、戦後70年以上が経ち、老年を迎えた田丸がそっとこう言います。
「自分が人を殺したということ。それを自分の子供に伝えるのは、とても恐ろしいことだよ」
戦争体験は戦時中だけのものではなく、戦後も人びとの心のなかに傷として残り続けています。
戦争体験者にとって「戦後」はない
マンガは戦争を伝える有効な手段になる――。
この作品を受けてそう実感する青年がいました。沖縄国際大学大学院2年生の石川勇人さん(23)です。
石川さんは2021年8月に沖縄県宜野湾市主催の平和学習イベントで武田さんと対談したこともあり、ワークショップなどを通じて戦争の記憶を継承する活動を行っています。
「『戦争体験者から戦時中の話を聞けば、戦争のことを伝えられるんでしょ』と思われがちですが、そう簡単なものではありません」
石川さんは本土からの修学旅行生や、地元の子供達に沖縄戦の様子を伝えようとした時に、単純に戦闘の様子を話すだけではなかなか興味を持ってもらえませんでした。しかし、当時のお風呂や遊びといった生活に身近な話題を入り口としたり、絵や写真を使って説明したりすることで関心を持ってもらえるようになりました。戦争を知らない世代に、戦争を伝えることに工夫が必要だということを強く実感したと言います。
そして石川さん自身も、武田さんとちばさんと同じく「戦争体験」を伝えようとして「後ろめたさ」を感じたことがありました。沖縄戦の体験者への聞き取り調査で体験者にPTSDを引き起こさせてしまったのです。
「戦争を伝えることは、体験者を『傷つける』可能性も伴います」
そこから地道な活動で体験者と絆を結んでいった石川さんは、PTSDを引き起こしてしまった人からも伝承を託されます。戦争の事実とどう向き合うか、今も学び続けています。
「ある体験者の方から『戦後も傷を抱えてずっと生きてきたということは、私たちにとっては戦争が続いてるということなんだ』と怒られたこともあります。体験者にとって戦争は今もまだ続いているんです」
なぜ、戦争と向き合い続けるのか
石川さんのお話からは、「戦争体験を受け継ぐ」という行為には体験者自身を苦しめてしまう可能性があること、武田さん、ちばさんのお話からは、「戦争をマンガで描く」ことには後ろめたさがついて回る……ということが語られています。
それでも「伝えること」をやめない彼らの言葉には、誰にとってもつらい「戦争の記憶」とこれからも向き合い続ける覚悟が感じられます。
今年で「戦後」77年。戦争を知らない世代が大半となった今、これからの世代は戦争について自ら考える姿勢が重要だと、ふたりの作家は考えています。
武田さんは「若い人に興味を持ってもらうのは難しいことですが、このマンガは入り口としてはいいんじゃないかと思います。『ペリリュー』は、戦争についてこうだと決めつける描き方は一切していないつもりです。その代わり、考えるきっかけとなる要素はいくつも入っていると思うので、普段考えないことを考えてくれると嬉しいです」
戦争経験世代のちばさんは「今も戦争について学び考え続けています。そうしないと、いつのまにか戦争の渦に呑まれる危機に、気づかない人間になってしまう」と危機感を口にします。
終戦から77年。ちばさん、武田さん、石川さんと異なる世代の3人は、それぞれに戦争に向き合い考え続けています。あなたは戦争についてどう考えますか?
[取材・文=杉本穂高/編集=佐藤勝、沖本茂義]
本記事は、マグミクスによるLINE NEWS向け特別企画です。