空腹で今日も眠れない。
小学5年の少年に課されたのは、6キロもの減量だった。2カ月で、51キロの体重を45キロまで落とさないといけない。
たかし(仮名)は布団の中で何度も寝返りをうった。我慢できないときは、こっそり台所にいった。熱々のお茶を入れて、それをズルズルとすすった。
「熱くて、胃に刺激のあるものを入れたくて。体が温まると少し眠れた」
誰にも弱音をはけなかった。
減量を始めたのは、小学校5年生になった春。通う柔道場の先生に言われた。
「軽量級で戦えば、お前も活躍できるかも。エースと一緒に全国を目指そう」
個人戦の県大会の約2カ月前。軽量級(当時45キロ以下)への転向のススメだった。
たかしが目指した全国大会は今年、廃止となった。理由となった「いきすぎた勝利至上主義」という言葉は大きな反響を呼んだ。
「全国」という響きに、周囲の大人が過熱していく。
指導者も、保護者もそのステータスに憧れ、功名心にかられていく。
スポーツをする子どもたちは何かを得るのではなく、何かを失っていないだろうか――。
学校の給食でも白米は食べなかった、結果は…
一人の柔道少年の物語に戻る。
たかしは軽量級に転向する前年、重量級(同45キロ超)で県大会3位だった。
優勝者は同級生のチームメートで、力の差を感じていた。先生には自宅に送り迎えしてもらうこともあり、恩も感じていた。
「期待に応えたかった」
それまでは、隙間時間にもおにぎりなどの炭水化物を食べて体重を増やす「食トレ」を励行されていた。
階級転向を決めた日から間食はやめ、日々の食事も減らした。それでも、育ち盛りの体は体重が減らない。
1カ月前からは、家での食事は麦飯に切り替えた。
おかずはコンニャクステーキに、コンニャクの刺し身。それに白菜にポン酢をかけて食べていた。
学校の給食で白飯は食べなかった。
「体調が悪いの?」。教師には心配された。
理由を説明しても、いまいち、教師はピンとこない様子だった。
「白いご飯を丼いっぱい食べたい」
それだけを考えて迎えた試合当日、体重はリミットいっぱいでパスした。
結果は3位。優勝者が出場できる全国大会には届かなかった。
負けた悔しさより、試合後に中華料理屋でチャーハンやラーメンをむさぼるよう食べたことをよく覚えている。
減らした体重をキープして、翌年の大会も軽量級で出たが、6年生の部で優勝はできなかった。
道場の先生の目の色が変わっていく
たかしが地元の柔道場に通い始めたのは、小学1年生の時だった。
当初は練習は週3回。あまり強くはなかったが、みんなで山登りやバーベキューに行くアットホームな雰囲気が好きだった。
4年生の時、他県から引っ越してきた同級生が入門してきた。のちの重量級の県大会優勝者だ。
最初は同じくらいの実力だったのに、一緒に練習していくうちに彼はメキメキと頭角を現した。
その成長を見つめる道場の先生の目の色が変わっていく。ある日、言った。
「上を目指そう」
平日の練習は週4日となり、さらに土日は試合や県外などへの遠征に行った。
5年生の時、団体戦で全国大会に出場した。
大会の序盤で敗れた。
先生は「次は上位を目指そう」と話し、勝負への厳しさを増していった。
中学校に上がるころ、たかしは柔道から離れた。
「重圧から解放されてすごい楽になった。こんなにすっきりするんだ、と」
大学に進学してから柔道サークルに入った。今は技を一から考え直し、仲間と技術を研鑽(けん・さん)する。
「柔道って、勝敗以外に価値があるんだって知った。こんなに豊かなものなんだって」
「あなたたち指導者が勝ちたいだけでしょう」
今年3月、全日本柔道連盟(全柔連)が「いきすぎた勝利至上主義が散見される」として、全国小学生学年別大会の廃止を発表した。たかしが出場できなかった個人戦の全国大会だ。
2004年度に始まり、毎年夏に開催されていた。小学校5、6年生が対象で、重量級と軽量級に分かれて争われる。
この大会は階級が二つしかなく、体格差の大きい対戦がよく見られた。勝敗にこだわり、組み手争いに終始する試合もあった。
過熱した指導者や保護者が勝利に固執し、審判や、自分の子どもの対戦相手をののしるケースもあったという。
全国大会の廃止を、たかしはどう受け止めているのか。
「僕のように苦しむ子が減るのなら、安心できる」
気になったのは、少年柔道の指導者のSNS投稿だ。
「子どもがかわいそう」というつぶやきを何本か目にした。
「あなたたち指導者が勝ちたいだけでしょう。本当に心が痛くなる」
10年近く前の記憶が呼び覚まされ、家族と話す機会もあった。
「相当しんどそうだった。なんで減量に協力してしまったのか。親として考えが浅かった。本当にごめん」
母にはそう謝られた。
バレーボール元日本代表の益子直美さん「ぶたれない日はほぼなかった」
「バレーボール界も続きたい」
柔道の小学生の全国大会廃止が決まって、すぐに反応したのが、バレーボール元日本代表の益子直美さん(56)だ。
そこには、バレーを始めた中学時代の体験がある。
「監督にぶたれない日はほぼなかった。それが当たり前の時代。毎日毎日怒られて」
エースの自分だけではない。仲間も、体育館のコートで怒鳴られ、たたかれていた。
「ただ怒られないように、ヒヤヒヤ、ドキドキしながらバレーをやっていた。どんなにスパイクを決めても、自信を持ったことがなかった。怒られてばかりで、自己肯定感が育たなかった」
優勝したのは、東京都葛飾区の大会ぐらい。全国大会に出場したことはなかった。
なのに、中学3年の夏、東京都や全国の代表選手に選ばれた。
合宿で、一緒に練習した選手のレベルの高さに驚いた。
「何で自分が選ばれたの?って」
学校に戻って、「やめます」と監督に伝えた。高校受験に備えて塾に通った。
「一度はバレーから逃げた。でも、受験勉強よりはバレーの方がいいかなと」
「監督が怒ってはいけない大会を開きたい」
コートに戻り、東京・共栄学園高へ。
全国大会で準優勝し、3年時に日本代表に選ばれた。
卒業後、実業団の強豪・イトーヨーカ堂に入り、1990年の日本リーグ初優勝に貢献した。
実業団では、指導者に怒られることはあっても、ぶたれることはなかった。
「社会人の自覚を持て、というスタンス。選手の主体性が求められた。でも、私は中学や高校で、『ああしろ』『こうしろ』と言われ、怒られないようにやっていただけ」
「自分で考えて、何をやるべきかが、分からなくて、戸惑った。怒られないから、さぼることもあった」
自信はないまま。バレーは大嫌い。
実業団での目標は「早く引退すること」だった。
92年に引退し、コーチを務めた後、タレントに転身した。
「バレーは好きじゃなくて。関わりたくないな、と」
テレビの解説を務め、障害者のシッティングバレーやゲイのバレー大会を支援しながら、指導現場とは距離を置いていた。
転機は2013年。福岡県の小学生バレーチームから、バレー教室に招かれた。
そのチームのコーチも高校時代、暴力的な指導を受けていた。
2人はバレーのつらい経験を語り合い、心を通わせた。
そして、益子さんが提案した。
「監督が怒ってはいけない大会を開きたい」
怒らない指導法、選手の自主性は
15年、福岡県で「益子直美カップ」を始めた。
「子どもたちが指導者に怒られるのを見たくない。楽しい場を提供したい」
こんなルールも設けた。
怒った監督には、×印のついたマークをつけてもらう。腕や脚を組んだ高圧的な態度は注意する――。
当初、保護者からは批判も浴びた。
「そんなことでは強くなれない」
「子どもが育たない」
益子さんは「自分自身、学んでいなくて、反論できなかった」と振り返る。
怒らない代わりにどんな指導法があるのか。選手は主体性をどう身につけたらいいのか。
「スポーツメンタルコーチング」や怒りをコントロールする「アンガーマネジメント」を学んだ。
大会では今、そうした指導法やスポーツマンシップも教えている。
「監督が怒ってはいけない大会」では、子どもたちのプレー中、じっと見守る監督に益子直美さんが「黙っててくれているチャレンジを監督もしてくれました」とたたえた=大会事務局提供
1月の大会では、ラグビーにならって、試合後に両チームが語り合う「アフターマッチファンクション」も設けた。
大会は神奈川県や秋田県と、各地に広がっている。
競技の枠も超えている。日本スポーツ協会も視察し、バスケットボールでも採り入れる動きがある。
「勝利至上主義」と五輪での「メダル至上主義」
スポーツは勝利や好記録を目指すからこそ、面白みがある。
ただ、目標を目指すプロセスより、大人が結果を追い求めてしまう風潮と、子どもに無理をさせ、けがにつながる現実もある。
小学生と中学生のスポーツは戦後しばらく、学校内の競技に重きを置いていた。国は対外試合を行わない指針を掲げていた。
それが、戦後初めて日本が参加した1952年のヘルシンキ五輪での惨敗や64年の東京五輪を通じ、競技団体の側から「国際大会で勝つためには低年齢からの選手養成が必要」と、緩和の要請が強まった。
この経緯は、結果的に「勝利至上主義」を呼び込む一因となった。日本は五輪での「メダル至上主義」に傾いていった。
国が初めて中長期のスポーツ政策の指針をまとめたのは2000年。文部省(現文部科学省)が「スポーツ振興基本計画」を発表した。
計画の目玉は五輪のメダル獲得率3.5%という数値目標だった。これは96年アトランタ五輪のメダル獲得率1.7%(14個)の倍。国策として、「メダル倍増計画」が動き始めた。
トップ選手の強化に重きを置く国の予算は拡充され、07年には国費374億円を投じたナショナルトレーニングセンターも完成した。官民挙げての招致活動には公費も投入され、五輪は東京にやってきた。
総決算となった21年夏の東京五輪で、日本は金メダル27個、総メダル58個という過去最高の成績だった。
では、祭りの後、何が残ったのか。
日本オリンピック委員会は今年に入って大規模なスポンサー離れにあっている。複数競技の国際スポーツ大会の中継局はなかなか決まっていない。
メダルの数では、スポーツ離れを防げなかった。
柔道金メダリスト・井上康生さん「私の存在が成功例とみられるのは…」
「後悔しているのは、現役時代に『金メダルだけが大事ではない』ということを言葉で発していなかったこと。表現しないといけないという感覚が、芽生えていなかった」
2000年シドニー五輪の柔道で金メダルに輝いた井上康生さん(44)はそう話す。
自身は小中高校、大学、シニアとすべてのカテゴリーで全国優勝してきた。
「私の存在が成功例とみられるのは、絶対におかしい。私はスポーツの楽しさ、うれしさを感じとるなかで育つことができた。それが大きい。すべての優勝者にあてはまるかというと、そうではない」
現在、全柔連で競技の魅力発信を担うブランディング戦略推進特別委員会の委員長を務める。
小学生の全国大会の廃止に賛同する。
「柔道の魅力、価値を見直す大きなきっかけになった。私も柔道をやっている子どもを持つ親。子どもにとっての勝負の魅力は十分に理解している。努力を披露する場があることで、彼女たち、彼らはより成長していける。得た結果が、次につなげていける力になることも間違いなくある」
「ただ、子どもの成長段階にあった運動ができていなかった。過度な減量があった、大人が過度な重圧をかけていたというのも聞いている。子どもの成長が止まってしまう危険性がある」
日本スポーツ少年団の全国大会、廃止も含めて検討
日本スポーツ協会は「いきすぎた勝利至上主義を助長する」として、主催する日本スポーツ少年団の全国大会について、廃止も含めて検討している。今年度中にも結論を出す。
幼少期には多くの競技を体験することが発育発達に良い、と言われている。
小中学生の全国大会があることで、早期に競技を絞ってしまうことも問題となる。
スポーツ少年団は、全国に約2万8千の団体あり、スポーツを中心に約600種類の活動をしている。
小学生を中心に登録者は約57万人。全国大会は、軟式野球、剣道、バレーボール、サッカー、ホッケーの5種目で行われてきた。
スポーツ行政の長、スポーツ庁の室伏広治長官はきっぱりと言う。
「柔道からこういうような動きがあり、他にも影響を与える。各競技団体がしっかり考えて工夫すべきことだと思う。もちろん、我々も注視していく」
「これからは健全で楽しめるスポーツ、生涯スポーツという視点からの取り組みが重要になってくる」(朝日新聞スポーツ部)
※この記事は、朝日新聞デジタルによるLINE NEWS向け特別企画です。